■ Title Index : all ア カ サ タ ナ ハ マ ヤ ラ ワ A-Z・数字 監督別 |
■ ★評価別Index : ★★★★★ ★★★★ ★★★☆ ★★★ ★★☆ ★~★★ |
2006年
08月
10日
(木)
22:34 |
編集

「ゲド戦記」 ★★
TALES FROM EARTHSEA (2006年日本)
監督:宮崎吾朗
原作:アーシュラ・K・ル=グウィン 『ゲド戦記』
原案:宮崎駿 『シュナの旅』
脚本:宮崎吾朗、丹羽圭子
挿入歌:手嶌葵 『テルーの唄 』、主題歌:手嶌葵 『時の歌』
キャスト(声の出演):岡田准一、手嶌葵、田中裕子、小林薫、夏川結衣、香川照之、内藤剛志、倍賞美津子、風吹ジュン、菅原文太
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「CASSHERN」の轍 再び。
肝心なストーリーの設定部分や細部の詰めは明らかな説明不足なのに、説教臭いメッセージだけ威丈高に台詞で言わせる。以前「CASSHERN」を観た時のまさにあの感じが沸々と湧き上がってきてしまった、テーマは悪くない、見せ方が下手糞なのだ。
ネタバレ有り
宮崎駿監督の息子、宮崎吾朗の監督デビュー作品。「ゲド戦記」の映画化に当たっての確執話や原作との比較に関する議論はここでは避け、できるだけ作品単体から感じた率直な感想を述べたいと思う。
まず序盤のドラゴンや憂国の国王の登場によって、均衡を失った世界の不穏な空気を感じさせるものの、壮大な物語を期待させた展開が完全に裏切られてしまうのが痛恨。世界の行末を憂えている大賢人が災いの種を探して旅に出たというが、結局一部の人間の中の内的な闘いに終始して映画は終幕。こんなんで世界は救われるのか?というシンプルな疑問が生じてしまう展開には正直落胆させられた。
次にテーマの部分だが、この映画を観る限りでは世界の均衡はそこに生きる其々の人間の心の均衡に依拠しているということなのだろう。死を怖れて命を疎かにするのではなくて、生きていく不安や苦しみも総て飲み込んで限りある命を受け容れて生きる、即ち生と死、光と陰という表裏一体の対照をこの作品は自分の中の闘いという形で表現しているのだと思う。そのテーマ自体は非常にポジティブかつストレートでいいのだが、問題はその表現方法が拙いということだ。
とにかく肝心な物語の設定や繋がりは全くもって説明不足なまま端折られてしまい、直接的なメッセージだけをキャラクターが連呼する。更に現代社会が抱える問題まで包括して見せる辺りまぁ極めて解りやすい伝え方ではあるのだが、言葉だけで伝えるのであれば何も映画という媒体を使う必要なんかこれっぽっちもないんじゃないだろうか?と思った次第。
メッセージというものは観客がその映画全体から受け取るものであって、言葉を幾ら重ねても総てが伝わるものではない。おそらくこれは新人監督だからということもあるのだろう、言いたいことをとにかく台詞で言わせないと気が済まないというのは、紀里谷監督のデビュー作「CASSHERN」にも同じ事が言えたからだ。「表現したい」と逸る気持ちは解るのだが、もっと映像が語る力を、そして観客の見る目を信じてもいいのではないか?
以前観た「ベルヴィル・ランデブー」というアニメーションには殆んど台詞も説明もない。だが短い80分の作品の中に作り手の様々なメッセージや思いを感じ取ることができるのだ、何とも対照的である。
そして本作で致命的な事が一つある。
「命を大切にしない奴なんか大っ嫌いだ」、と大上段からテルーに言わせたのにも関らず、敵とはいえ死に怯える哀れなクモを竜となったテルーが一刀両断に焼き殺してしまう。この直前にはアレンが「お前は僕と同じ」とクモに語りかけていたのに、ドラマとしてこの着地は少々矛盾してはいないだろうか?アレンやクモが抱えていた闇は、人が誰しもが持つ内面の弱さに他ならない。ナウシカが腐海の蟲の命を尊び助けたように、或いは千尋がカオナシの魔を受け止め封じ込めたように、アシタカがその身に受けたタタリ神の呪いと共に生きることを選んだように、嫌悪や拒否の対象さえも引き受ける懐の深さがこの映画にはないのだ。実はあの清濁併せ呑むかのような限りない大きさがジブリ映画の魅力の一つだと自分は思う。言うなれば闇があるからこそ光があるのだ。アレンの父親殺しやテルーに向けられたネグレクトと虐待という命を軽んじる行為に疑問を投げかけ、命を大切にしろと説くのであれば、闇を憎悪の対象として葬るのではなくもっと違った収拾の方法があったのではないだろうか。
またキャラクターに関しては観客が感情移入できるキャラを一人くらい作ったほうが観易いと思う。アレンという少年に共感し難いのは彼の生い立ちや実父に刃を向けた背景が殆んど語られないからだろう。それ以外にも抜けない剣、本当の名前、竜の存在意義、映画の中で語られない謎があまりにも多過ぎる。監督は「ゲド戦記」なんて聞いた事もなく、何の予備知識もない観客がこの作品に金を払って観に来る事をもっと考えた方がいいのではないか?
作画監督は「ハウルの動く城」と同じ稲村武志。ハウルの時にも背景の絵面の汚さや、飛翔シーンの平面的な構図にはがっかりさせられたのだが、今作は全体的にアンバランスな印象が強かった。背景は絵画的に色を重ねていて拘りを感じさせられるものだがアニメーション部分は至って単純で平面的。動いている物と背景とがミスマッチに思えてならなかった。
最後になるが映画と関係ない部分でどうも嫌な憶測をしたくなってしまうのは、映画の中で父親に刃を向けたアレンという人物像が宮崎吾朗監督と重なってしまうからなのだ。どんな作品を撮ろうとついて回る父「宮崎駿」というネームバリューの呪縛を一番感じているのは監督自身だろう。そんなことは本来どうでもいいことなのだが、結局原作にはないという「親殺し」のエピソードが映画の中できっちり昇華されていない為に余計に深読みしたくなってしまうのだと思う。きっと配給はこれも宣伝になると読んでるんだろうなぁ。
というわけでジブリ映画だけど中身はジブリ映画じゃない、似て非なるものというのが率直な印象。でもジブリだと思わずに観ることなんて絶対に不可能なのだ、だって何処かで見た様なキャラが勢揃いだからねw
むしろ原案の「シュナの旅」を駿監督の映画化で観たかった気もする。テーマは悪くないだけに本当に勿体ない作品だ。
しかしクモのちょん切られた腕再生シーンで
初号機エヴァ暴走キタ━━(━(━(-( ( (゚∀゚) ) )-)━)━) ━━ !!!!!と喜んでみたことは勿論、アレンのヘタレっぷりや父親にコンプレックスを抱えて鬱々と自分探しをしている姿は碇シンジに見えてしょうがなかった。ということはゲド戦記feat.エヴァンゲリオンってことでOK?(爆
因みに自分の中ではこんななってます、今まで観たジブリ物。
AA ラピュタ、ナウシカ
A トトロ、豚、カリオストロ
B もののけ姫、千と千尋、魔女の宅急便
C ハウル
D ゲド

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■「ゲド戦記」原作及び原案
■サウンドトラック他
肝心なストーリーの設定部分や細部の詰めは明らかな説明不足なのに、説教臭いメッセージだけ威丈高に台詞で言わせる。以前「CASSHERN」を観た時のまさにあの感じが沸々と湧き上がってきてしまった、テーマは悪くない、見せ方が下手糞なのだ。
ネタバレ有り
宮崎駿監督の息子、宮崎吾朗の監督デビュー作品。「ゲド戦記」の映画化に当たっての確執話や原作との比較に関する議論はここでは避け、できるだけ作品単体から感じた率直な感想を述べたいと思う。
まず序盤のドラゴンや憂国の国王の登場によって、均衡を失った世界の不穏な空気を感じさせるものの、壮大な物語を期待させた展開が完全に裏切られてしまうのが痛恨。世界の行末を憂えている大賢人が災いの種を探して旅に出たというが、結局一部の人間の中の内的な闘いに終始して映画は終幕。こんなんで世界は救われるのか?というシンプルな疑問が生じてしまう展開には正直落胆させられた。
次にテーマの部分だが、この映画を観る限りでは世界の均衡はそこに生きる其々の人間の心の均衡に依拠しているということなのだろう。死を怖れて命を疎かにするのではなくて、生きていく不安や苦しみも総て飲み込んで限りある命を受け容れて生きる、即ち生と死、光と陰という表裏一体の対照をこの作品は自分の中の闘いという形で表現しているのだと思う。そのテーマ自体は非常にポジティブかつストレートでいいのだが、問題はその表現方法が拙いということだ。
とにかく肝心な物語の設定や繋がりは全くもって説明不足なまま端折られてしまい、直接的なメッセージだけをキャラクターが連呼する。更に現代社会が抱える問題まで包括して見せる辺りまぁ極めて解りやすい伝え方ではあるのだが、言葉だけで伝えるのであれば何も映画という媒体を使う必要なんかこれっぽっちもないんじゃないだろうか?と思った次第。
メッセージというものは観客がその映画全体から受け取るものであって、言葉を幾ら重ねても総てが伝わるものではない。おそらくこれは新人監督だからということもあるのだろう、言いたいことをとにかく台詞で言わせないと気が済まないというのは、紀里谷監督のデビュー作「CASSHERN」にも同じ事が言えたからだ。「表現したい」と逸る気持ちは解るのだが、もっと映像が語る力を、そして観客の見る目を信じてもいいのではないか?
以前観た「ベルヴィル・ランデブー」というアニメーションには殆んど台詞も説明もない。だが短い80分の作品の中に作り手の様々なメッセージや思いを感じ取ることができるのだ、何とも対照的である。
そして本作で致命的な事が一つある。
「命を大切にしない奴なんか大っ嫌いだ」、と大上段からテルーに言わせたのにも関らず、敵とはいえ死に怯える哀れなクモを竜となったテルーが一刀両断に焼き殺してしまう。この直前にはアレンが「お前は僕と同じ」とクモに語りかけていたのに、ドラマとしてこの着地は少々矛盾してはいないだろうか?アレンやクモが抱えていた闇は、人が誰しもが持つ内面の弱さに他ならない。ナウシカが腐海の蟲の命を尊び助けたように、或いは千尋がカオナシの魔を受け止め封じ込めたように、アシタカがその身に受けたタタリ神の呪いと共に生きることを選んだように、嫌悪や拒否の対象さえも引き受ける懐の深さがこの映画にはないのだ。実はあの清濁併せ呑むかのような限りない大きさがジブリ映画の魅力の一つだと自分は思う。言うなれば闇があるからこそ光があるのだ。アレンの父親殺しやテルーに向けられたネグレクトと虐待という命を軽んじる行為に疑問を投げかけ、命を大切にしろと説くのであれば、闇を憎悪の対象として葬るのではなくもっと違った収拾の方法があったのではないだろうか。
またキャラクターに関しては観客が感情移入できるキャラを一人くらい作ったほうが観易いと思う。アレンという少年に共感し難いのは彼の生い立ちや実父に刃を向けた背景が殆んど語られないからだろう。それ以外にも抜けない剣、本当の名前、竜の存在意義、映画の中で語られない謎があまりにも多過ぎる。監督は「ゲド戦記」なんて聞いた事もなく、何の予備知識もない観客がこの作品に金を払って観に来る事をもっと考えた方がいいのではないか?
作画監督は「ハウルの動く城」と同じ稲村武志。ハウルの時にも背景の絵面の汚さや、飛翔シーンの平面的な構図にはがっかりさせられたのだが、今作は全体的にアンバランスな印象が強かった。背景は絵画的に色を重ねていて拘りを感じさせられるものだがアニメーション部分は至って単純で平面的。動いている物と背景とがミスマッチに思えてならなかった。
最後になるが映画と関係ない部分でどうも嫌な憶測をしたくなってしまうのは、映画の中で父親に刃を向けたアレンという人物像が宮崎吾朗監督と重なってしまうからなのだ。どんな作品を撮ろうとついて回る父「宮崎駿」というネームバリューの呪縛を一番感じているのは監督自身だろう。そんなことは本来どうでもいいことなのだが、結局原作にはないという「親殺し」のエピソードが映画の中できっちり昇華されていない為に余計に深読みしたくなってしまうのだと思う。きっと配給はこれも宣伝になると読んでるんだろうなぁ。
というわけでジブリ映画だけど中身はジブリ映画じゃない、似て非なるものというのが率直な印象。でもジブリだと思わずに観ることなんて絶対に不可能なのだ、だって何処かで見た様なキャラが勢揃いだからねw
むしろ原案の「シュナの旅」を駿監督の映画化で観たかった気もする。テーマは悪くないだけに本当に勿体ない作品だ。
しかしクモのちょん切られた腕再生シーンで
初号機エヴァ暴走キタ━━(━(━(-( ( (゚∀゚) ) )-)━)━) ━━ !!!!!と喜んでみたことは勿論、アレンのヘタレっぷりや父親にコンプレックスを抱えて鬱々と自分探しをしている姿は碇シンジに見えてしょうがなかった。ということはゲド戦記feat.エヴァンゲリオンってことでOK?(爆
因みに自分の中ではこんななってます、今まで観たジブリ物。
AA ラピュタ、ナウシカ
A トトロ、豚、カリオストロ
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