■ Title Index : all ア カ サ タ ナ ハ マ ヤ ラ ワ A-Z・数字 監督別 |
■ ★評価別Index : ★★★★★ ★★★★ ★★★☆ ★★★ ★★☆ ★~★★ |
2006年
07月
14日
(金)
00:50 |
編集

メゾン・ド・ヒミコ 特別版 (初回限定生産)
「メゾン・ド・ヒミコ」 ★★★★
Maison de Himiko(2005年日本)
監督:犬童一心
脚本:渡辺あや
音楽:細野晴臣
エンディングテーマ:母の教え給ひし歌
キャスト:オダギリジョー、柴咲コウ、田中泯、西島秀俊、歌澤寅右衛門、青山吉良、柳澤愼一、井上博一、森山潤久、洋ちゃん、村上大樹、高橋昌也、村石千春
⇒ 公式サイト
⇒ メゾン・ド・ヒミコ@映画生活
⇒ Songs my mother taught me, Op.55, no.4「母の教え給ひし歌」を聴く
共鳴し合い寄り添う孤独。情欲を超越したコミュニティの安息に心を打たれる。
ネタバレ有り
自分は多くの偏見と誤解を持ってこの作品を観た、そしてそれをとても後悔した。
この映画は厳密に言えばホモセクシュアルを描いた映画ではない、勿論それをモチーフとしていることは確かであるが、この作品が言いたい事は人には肉欲やSEXを超えた繋がり方があるということ。言い換えれば、男と女とか親と子とか、そんな性別や家族、年齢の柵を取り払って人間対人間の精神的な関係、よりプラトニックで根源的な愛情と癒しを描いているのである。
作品は様々な問題を包括する。父娘の和解、ホモセクシュアルとその偏見、男女のジェンダーという問題、高齢化社会に伴う終末期医療(ターミナルケア)とホスピスの問題、そして最終的に性別や年齢を超えた根源的な繋がり。それ故に観る人によってどのテーマの部分を重く感じるか、それは変わってくるかもしれない。
まずホモセクシュアルとその偏見という観点から順に考えてみると、ゲイの男、その恋人岸本、娘サオリ、という三人がこのストーリーの軸になるキャスト。だが舞台となるゲイの老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」を訪れたサオリの視点が我々観客の視点と重なっている事がこの作品の見せ方の上手さの一つであろう。偏見と差別、侮蔑と半ば憎悪さえ含んだ嘲笑、異端に対するマジョリティの視線をサオリの表情は見事に体現してみせる。
だがその偏見は少しずつ変わり始め、コスプレをしたサオリは「似合うとか似合わないとかどうでも良くなって」、ゲイ差別主義者の権化のようなオヤジに「謝れ」と何度も何度も怒鳴りつけるのだ。これはまさしく理解と共有の瞬間である。そしてメゾン・ド・ヒミコという遠い異世界とサオリの世界(即ち我々というマジョリティの世界)との融解点が、あのダンスシーンに集約される。理解できなくて許せなかったものを受け容れようとする、それは偏見という壁の破壊に他ならない。
しかし一方で超えられない壁もまた提示される。即ちサオリと岸本は肉体的に愛し合うことができないのだ。
「欲望が欲しい」のは岸本だけではない、どんな人間だって同じだ、若くて健康な人間なら尚更のこと。だが二人は互いを充足し合う対象ではなかったし、サオリもまた愛した男とは肉体的に愛し合えなくても、少しも愛していない男とは容易にSEXできてしまう。だがそんな欲望で心は満たされることはない、この現実の皮肉が彼女の涙の正体となって零れ落ちるのである。
肉体と精神は常に一緒であるとは限らない、愛のないSEXがあれば、SEXのない愛もあるだろう。総ての垣根を超えて認め合う、或いは癒し合う関係だってあるのではないか。
岸本は「強烈な欲望が欲しい」と慟哭した。しかし欲望だけでは決して癒せないものがあることを彼もまたメゾン・ド・ヒミコで知リ得たのではないかと思う。
そして
「あなたが好きよ」
ヒミコがぽつりと言ったこの言葉こそ、映画「メゾン・ド・ヒミコ」を象徴する台詞そのものだ。短い、しかし総てを包含した告白をどれほどこの少女が切望していたのか。それでも決して「愛している」ではないという、この絶対的そして普遍的な関係。この和解は父娘というよりはむしろ、対人間同士の和解なのだ。そして取りも直さずこの肉欲やSEXを超えた「好き」という繋がりが作品の最終的なテーマに結びついていくのである。
偏見の視線に苛まれ、家族と離れて生きてきた孤独を、
かけがえのない大切な恋人を失う喪失感を、
或いはゲイの父親に愛される事を知らずに過ごしてきた寂しさを、
そして肉体的な欲望の充足では満たせない心の隙間を
メゾン・ド・ヒミコは穏やかな暖かさで包み込んでいく。
半ば擬似家族のように支え合うこの脆くも美しい砂上の楼閣は、彼等の抱える哀しみや孤独を揺りかごのようにあやし続けるのだ。インチキだろうがそれは現実では叶わぬ安息の楽園であることに変わりはないのである。
だが現実世界の人間がこんな根源的な深い愛情関係で繋がり合うことができるかどうか、それはおそらく困難なことだろう。メゾン・ド・ヒミコは理想であり儚い夢の城に過ぎない。この映画の中のゲイ達もサオリも、そして我々もそれが長くは続かない夢であることを知りながら、刹那の輝きに身を委ね、心を満たしたいと願うのだ。
明らかに強調されていたオダジョーのケツも見事wだが、無防備で子供みたいな表情を見せる"ブス"な柴崎コウ、そして田中泯の凛とした存在感に加え老いた切ないホモ達が実にいい。
ピキピキピッキーにコスプレ天国、更にはエンディングといった諧謔的エピソードがシビアな現実に温かな救いを与えている。
また「ジョゼ~」の時には"くるり"による音楽がどのシーンも印象的で饒舌だったが、本作は意図的に音が少ないことにも注目されたい。それは張り詰めた心の微妙な揺れをストレートに観る者に伝えるだけでなく、浮世離れした楽園の穏やかな静けさを描き出すことにも一役買っている。この選択は正解だったのではないかと思う。
犬童監督は「死に花」で見つめた老いの問題にも触れつつ、「ジョゼと虎と魚たち」では越えられなかった壁をメゾン・ド・ヒミコというコミュニティによって融解させ収斂してみせた。
全体的には取り立てて特筆すべき演出や映像というものは見当たらない。だが、捉え所のない雰囲気とファンタジックな世界観に紛れもないリアリティを融合させ、避けられない多くのシビアな問題を映し出して他にはない魅力を持った作品として結実していると思う、必見です。
最後になるが、メゾン・ド・ヒミコが「異世界」或いは「非日常」であるとすれば、対してサオリが生きる世界は我々の日常の世界である。だが取り繕った体裁の下ではその日常もドロドロとした欲望に塗れた男と女の関係が顔を出す。異質な人々の奇妙な生態に驚き嫌悪し「インチキ」と罵るその言葉を聞きながら、正当化した自分たちの世界だって「インチキ」じゃないとは言えないことにとっくに勘付いていて何とも居心地の悪い思いにもかられるのだ。
■犬童監督データ
・フィルモグラフィー
・犬童一心監督作品の感想LINK
タッチ ★★
いぬのえいが ★★★
死に花 ★★★
ジョゼと虎と魚たち ★★★☆
■参考資料
・ ホモセクシュアル
・ 性的指向
・ ホスピス
・ ターミナルケア
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■「メゾン・ド・ヒミコ」サウンドトラック

細野晴臣氏によるサウンドトラック。
エンディングテーマ「母の教え給ひし歌」はドヴォルザークの“Songs My Mother Taught Me”である。
“Songs My Mother Taught Me”の試聴はこちらで
⇒ Dvorák: Music for Violin and Piano, Vol. 2
■犬童監督作品お薦めDVD
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